2021年9月10日
2001年9月11日朝。自爆攻撃を計画した実行犯グループがアメリカの旅客機4機をハイジャックし、ニューヨークの高層ビルと米国防総省に突入した。当日だけで3000人近くが犠牲になったこの攻撃は、アメリカだけでなく、世界全体に計り知れない打撃を与え、その後の世界の流れを大きく変える分岐点となった。
4機の旅客機
アメリカ東部を飛行していた旅客機4機が、計19人の実行犯グループに次々とハイジャックされた。それぞれ数十人を乗せた巨大な誘導ミサイルと化した旅客機は、ニューヨークとワシントンへ向かった。
4機のうち2機は、ニューヨークの世界貿易センタービルに突入した。
午前8時46分(日本時間午後9時46分)、アメリカン航空11便(乗客乗員92人、ハイジャック犯5人含む)が北棟に激突した。午前9時03分(同午後10時03分)には、ユナイテッド航空175便(乗客乗員65人、ハイジャック犯5人含む)が、南棟に激突した。
午前9時37分、アメリカン航空77便(乗客乗員64人、ハイジャック犯5人含む)が、ワシントン郊外にある国防総省(ペンタゴン)の西壁に突入した。
さらに午前10時03分、ユナイテッド航空93便(乗客乗員44人、ハイジャック犯4人含む)がペンシルヴェニア州シャンクスヴィルの野原に墜落した。ボイスレコーダーや乗客乗員たちの様々な通話記録には、首都の連邦議会議事堂に突入し破壊しようとするハイジャック犯たちに、乗客たちが抵抗する様子が残されている。
4機とも、ボストンやニュージャージー、ワシントンといった東海岸の出発地から、ロサンゼルスやサンフランシスコといった西海岸を目指す便だった。そのため、最大4万3000リットルもの燃料を積んでいた。ハイジャックされた旅客機は、大量の燃料を積んだ、誘導ミサイルと化した。大勢の乗員と乗客を乗せたまま。
ハイジャック犯19人を除くと、この攻撃で2977人が亡くなった。
1機目
アメリカン航空11便は午前7時59分、ロサンゼルスに向けてボストンを出発した。
乗客81人の中には、エジプト出身のモハメド・アタ容疑者をリーダーとするハイジャック犯5人がいた。
この日の計画は、イスラム原理主義の武装勢力アルカイダが、アフガニスタンの拠点で5年前から練り上げていたものだった。
パキスタン人のハリド・シェイク・モハメド被告が立案したとされる計画にもとづき、イスラム原理主義組織のメンバーにアメリカの飛行学校でパイロット訓練を受けさせて、旅客機をハイジャックし、アメリカの主要拠点を攻撃するという計画が、実行に移された。
ハリド・シェイク・モハメド被告が策定したこの計画は、サウジアラビア出身の富豪でアルカイダの指導者、オサマ・ビンラディン容疑者(2011年5月、米軍が殺害)のお墨付きを得ていた。すでにアメリカなど欧米諸国の情報機関にその動向が注視されていたビンラディン容疑者は、この日を境に世界で最も悪名高い「お尋ね者」となる。
2機目
午前8時14分、同じボストンの国際空港から、ユナイテッド航空175便がロサンゼルスへ向けて出発した。乗客56人のうち、5人がハイジャック犯だった。
ほぼ同じころ、アメリカン航空11便ではハイジャック犯が行動を開始していた。客室乗務員2人が刺され、飛行訓練を唯一受けていたアタ容疑者が操縦室へ向かった。アタ容疑者の後ろに座っていた乗客のダニエル・レウィンさんが刺され、死亡する。イスラエル軍の勤務歴があったレウィンさんは、ハイジャックを阻止しようとしたと思われている。
ハイジャック犯たちは催涙ガスなどを使い、乗員乗客を機内後方に押し込め、爆弾が仕掛けてあると脅した。ただし、爆弾は実際にはなかったと考えられている。同じような展開が、他のハイジャック機でも繰り返された。
3機目と4機目
アメリカン航空77便が午前8時20分、ロサンゼルスへ向けて、ワシントン・ダレス国際空港を出発した。ハイジャック犯が5人乗っていた。
この4分後、アメリカン航空11便の操縦室に入ったアタ容疑者は、客室にアナウンスするつもりが、押すボタンを間違えて、ボストンの管制官に誤って通信してしまう。
「複数の飛行機を押さえた」というその言葉の意味を、管制官たちが理解しようとする間、午前8時42分には4機目が出発した。
ユナイテッド航空93便が、ニュージャージー州のニューアーク国際空港からサンフランシスコへ向けて離陸した。空港の渋滞が理由で予定より42分遅れての出発だった。さらに、乗り込んだハイジャック犯は他の機の5人と異なり、ここでは4人だった。こうしたことが、その後の展開に影響したとされている。
そしてほぼ時を同じくして、ユナイテッド航空175便がハイジャックされた。
激突
ハイジャックされてから約30分後の午前8時44分、アメリカン航空11便がニューヨーク上空にさしかかった。
澄み切った快晴の朝だった。
客室乗務員のマデリン・スウィーニーさんはすでに、アメリカン航空のフライトサービス・マネージャーに一部始終を報告していた。
管制官は11便が、ジョン・F・ケネディー国際空港へ向かっているものと思い、他の航空機に距離を置くよう呼びかけていた。
11便は降下を開始するが、向かっているのは空港ではなかった。
「何か変です。急降下しています」とスウィーニーさんは連絡した。「低空飛行です。すごく、すごく低空飛行です。低すぎます」。
そしてその数秒後。
「ああ、神様、どうしよう。低すぎる」
通話はここで途絶えている。
午前8時46分、アメリカン航空11便が世界貿易センタービル北棟に突入した。
世界貿易センタービルの南棟99階で当時働いていた、保険業エーオン社のコンスタンス・ラベッティさんは、1機目の接近を見ていた。
「凍り付いてしまって。動かなかった。動けなかった」と語るラベッティさんの証言は、9/11追悼博物館に所蔵されている、多くの生存者や遺族の声のひとつだ。
「どんどん接近するのを見ていた。『AA(アメリカン航空)』と尾翼に描いてあるのが見えた。操縦室の色つき窓も見えた。それくらい近かった」
11便が北棟に激突するその衝撃は、何かの咆哮(ほうこう)のようだったとラベッティさんは言う。
飛行機はビルの93階から99階部分に突っ込み、数百人が即死した。
この衝撃で、92階より上の階段が使えなくなり、上層階にいた大勢が閉じ込められたと考えられている。
突入の衝撃で機内の燃料が爆発し、エレベーターや下層階も破壊された。場所によっては温度が摂氏1000度に達し、北棟だけでなく隣の南棟も、黒煙に覆われた。
激突から10分もすると、上層階から外へ落ちる……あるいは飛び降りる……人の姿が、地上からも次々と見えるようになる。
事故ではない
午前9時03分、今度はユナイテッド航空175便が、世界貿易センタービルの南棟に突入した。
それまで現場近くやテレビ画面越しに北棟の惨状を凝視しながら、これは事故なのかと疑っていた人たちも、そうではないのだと理解する。
南棟で勤務していたラベッティさんはすでに上司の指示で、階段を降りつつあった。
「72階か75階まで下りたところで、轟音(ごうおん)を聞いたというか、聞いて感じた。階段を下りていた人たちは、転げ落ち始めた」と、追悼博物館に残された証言で語っている。
「誰かがビルをつかんで、揺さぶって、元に戻したみたいな感じだった。私は手すりにしがみついていたので、落ちなかったけれども、大勢が階段を転がり落ちていた」
ペンタゴン
午前9時37分、アメリカン航空77便がヴァージニア州アーリントンにある国防総省(ペンタゴン)の西壁に突入した。
屋根より60メートルも高く火炎が上がり、機内の64人全員に加えて、庁舎内にいた125人が死亡した。
首都ワシントン郊外にあるペンタゴンが攻撃されたのを受け、米連邦航空局(FAA)はすべての民間旅客機に直近の空港にただちに緊急着陸するよう、前例のない指示を出した。
アメリカ上空を飛び続けたのは、ハイジャックされたユナイテッド航空93便。地上と通信するトランスポンダーはとっくに切られていた。
UA93
ユナイテッド航空93便(UA93)のハイジャックは、離陸から46分後に始まった。他の3機は離陸30分後だった。加えて、UA93は朝のニューアーク空港が混雑していたため、出発が定刻から42分遅れた。このことも、その後の展開に影響した。
レバノン出身のジアド・ジャラー容疑者を筆頭に、ハイジャック犯たちは他機と同様、爆弾を仕掛けてあると脅して、乗客たちを機内後方に移動させた。そこで乗客たちは携帯電話や機内電話で、近親者に電話をかけ始めた。
少なくとも37件、外部への通話が記録されている。
それによってUA93の乗客たちは、ニューヨークですでに何が起きたのかを知ることになった。出発が他の3機より遅れ、ハイジャック開始も他機より遅かったことが、ここで大きく影響した。乗客たちは、自分たちがこのまま何もしなければ何が起きるのか、知るに至った。
元客室乗務員のアリス・ホーグランドさんは、UA93に乗っていた息子マーク・ビンガムさんに、ボイスメールを残している。
「マーク、ママです。テロリストにハイジャックされたんだって。たぶん機体を使って、地上の何かを攻撃するつもりなんだと思う。連中は必死だから、できる限り全力で抑え込んで」
2つ目の通話はもっと切迫した口調になっていた。
「サンフランシスコに向かってるフライトがあるんだって。あなたが乗ってるそれかもしれない。だから、もしできるなら、ほかの人と一緒になって、操縦権を奪ってみて。愛してるよ。バイバイ」
地上への複数の通話から、乗客全員が投票して、ハイジャック犯と戦うことを選んだとされる。
大勢が操縦室のドアをこじ開けようとしたと思われる。フライトレコーダーには、相次ぐ衝突音や叫び声、ガラスや食器の割れる音が記録されている。
ハイジャック犯の1人が操縦室の扉を押さえる間、操縦かんを握っていたジャラー容疑者は、突撃しようとする乗客を振り払おうと、機体を左右に揺さぶり始めた。
首都ワシントンまでまだ20分かかる時点で、ジャラー容疑者は別のハイジャック犯に、墜落させてもいいか尋ねる。
「そうしよう」という答えを得て、機体は急降下を始める。
ハイジャック犯の1人が「アッラーは偉大なり、アッラーこそ偉大なり」と叫ぶ。乗客たちは操縦室への突撃を続ける。
そうして、時速930キロ以上の速度で飛行していたUA93は、ペンシルヴェニア州シャンクスヴィルの草原に墜落した。
生存者はいなかった。
米政府はすでに、このUA93がワシントンに接近するようなら撃墜するよう、軍に命令を出していた。目標はホワイトハウスか、連邦議会の議事堂だったのではないかと見られている。
UA93が墜落する4分前、ニューヨークでは世界貿易センタービルの南棟が午前9時59分に崩壊していた。
高さ415メートルのビルが完全に崩れ落ちるのに、11秒しかかからなかった。
続いて午前10時28分には、北棟が崩壊した。
現場となったマンハッタン島南部とその周辺は、大量の粉塵(ふんじん)に覆われた。
死者数
ハイジャック犯19人を除くと、この日の攻撃で2977人が亡くなった。その大半はニューヨークで被害に遭った。
- ハイジャックされた4機の乗客乗員246人(ハイジャック犯除く)は全員死亡
- 世界貿易センタービルにいた2606人が当日、あるいは負傷のため後日、亡くなった
- 国防総省にいた125人が亡くなった
最年少の犠牲者は当時2歳のクリスティーン・リー・ハンソンちゃんだった。両親のピーターさんとスーさんと共に、ユナイテッド航空175便に乗っていた。
最年長は82歳のロバート・ノートンさんで、妻ジャクリーンさんと息子の結婚式に出席するため、アメリカン航空11便に乗っていた。
アメリカン航空11便が世界貿易センタービル北棟に突入した時、ビル2棟の中には推定1万7400人がいたとされる。北棟の激突された箇所より上の階で生き残った人はいないが、北棟への攻撃から約18分後に攻撃された南棟では、ユナイテッド航空175便が激突した箇所より上の階から18人が脱出した。
被害者の国籍は、アメリカを含めて77カ国と多岐にわたった。日本人24人も亡くなった。
被害現場に急行したニューヨーク市の警官や消防士、救急隊員らのうち、441人が命を落とした。
さらに、約40万人もが現場で負傷したり、攻撃の影響で心身の病気になった。現場に大量に飛散したアスベストや鉛、コンクリート粉末などの有害物質を吸い込んだ消防士や警官などが大勢、様々な呼吸器系疾患やがんを発症し、死者も相次いでいる。
実行犯
アルカイダと、アフガニスタンに潜伏していた指導者オサマ・ビンラディン容疑者が、9月11日の攻撃の首謀者と特定された。
イスラム圏で起きる様々な紛争や対立は、アメリカとその同盟諸国の責任だというのが、アルカイダの主張だった。
ハイジャック犯19人は、5人組3つと4人組に分かれ、4機に分乗した。それぞれの組に、アメリカ国内の飛行訓練学校でパイロット訓練を受けた者が、割り当てられた。
実行犯19人のうち15人は、ビンラディンと同じ、サウジアラビア出身だった。その他、2人がアラブ首長国連邦(UAE)、1人はエジプト、1人はレバノンの出身だった。
ブッシュ政権
その朝、ジョージ・W・ブッシュ米大統領(当時)は、フロリダ州の小学校を訪れていた。
エマ・E・ブッカー小学校の教室に入ろうとした午前8時47分、「小型の双発プロペラ機」が世界貿易センタービルの片方に衝突したと報告を受けた。
それ以上の情報はないと言われ、大統領は予定通り教室に入り、子供たちに絵本を読み聞かせ始めた。
FAAはすでに20分以上前から、1機目のハイジャックを察知していたものの、他の連邦政府機関に連絡していた形跡はない。
ホワイトハウスもまだ状況を把握していない。
ワシントンにいたディック・チェイニー副大統領はテレビでニュースを目にして、おそらく世界中の人と同じ感想を抱いた。副大統領はその時、「いったいどうやったら飛行機が世界貿易センターに当たるっていうんだ」と反応したという。
ほぼ同じころ、実行犯たちは3機目のアメリカン航空77便を支配下に置いていた。
世界貿易センタービルが2度目の攻撃を受けたと、アンドリュー・カード首席補佐官がブッシュ大統領に耳打ちしたのは、午前9時05分。大統領はまだ7歳児たちを前にしていた。
大統領は座ったまま、かすかに何度かうなずき、唇をすぼめた。
ブッシュ氏は後にBBCのドキュメンタリーで、この時のことをこう話している。
「危機の最中には、パニックせずに、手本になるのは本当に大切だ。だから私は、ちょうどいいタイミングを待ってから、教室を出ることにした」
「なにかドラマチックなまねはしたくなかった。椅子からいきなり立ち上がったり、教室に大勢いる子供たちを怖がらせたりしたくなかった。だから待ったんだ」
「グラウンド・ゼロ」
9/11を機に、世界中で空港や旅客機の警備が強化された。同年12月にはパリ発米マイアミ行きのアメリカン航空機内で、イギリス生まれのアルカイダの一員が靴に仕込んだ爆弾を爆発させようとする事件があり、その影響で旅客機搭乗前の身体検査では靴を脱ぐのが一般的になった。
2006年8月には、ロンドンからアメリカへ向かう複数の旅客機に液体爆発物を持ち込もうとしたというアルカイダの攻撃計画が未然に阻止され、それ以来、旅客機への液体持ち込みが厳しく制限されるようになった。
世界貿易センターの2つのビル(ツイン・タワーズ)の跡地は、「グラウンド・ゼロ(爆心地の意味)」と呼ばれるようになった。がれきの撤去作業には8カ月かかった。
跡地には現在、追悼碑と追悼博物館がある。その周囲には新しいデザインの、世界貿易センタービルがすでに林立し、今後も新しいビルの開発は続く。
再開発の中心となった「フリーダム・タワー(自由の棟)」は現在、「One World Trade Center」と呼ばれる。かつての北棟の高さ417メートルを超える、541メートルの高さでそびえ立っている。
国防総省の庁舎修理には1年近くかかり、職員が登庁できるようになったのは2002年8月だった。
対テロ戦争
9月11日の攻撃から1カ月もたたない10月7日、アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はアフガニスタン空爆を開始した。カナダなど複数の国が支援を表明していた。
アルカイダを排除し、ビンラディン容疑者を追跡することが作戦の目的だった。当時アフガニスタンのほとんどを支配していたイスラム原理主義武装勢力のタリバンが、アルカイダやビンラディン容疑者をかくまっていると、ブッシュ政権は主張した。
ただし、アメリカがビンラディン容疑者をついに捕捉して殺害したのは、2011年5月2日になってのことだった。発見場所はアフガニスタンではなく、隣国パキスタンだった。
9月11日の攻撃を立案したとされるハリド・シェイク・モハメド被告は、2003年にパキスタンで拘束された。以来、キューバ・グアンタナモにある米軍施設で勾留されている。裁判はまだ、公判前手続きの段階にある。手続きは2020年2月を最後にパンデミックで中断した後、9月7日に再開された。
<関連記事>
9/11を機にアメリカは「対テロ戦争」に乗り出した。ブッシュ政権は2002年にイラク、イラン、北朝鮮を名指しして「悪の枢軸」と呼び、2003年には「大量破壊兵器の開発」を理由にイラク戦争を開始し、サダム・フセイン政権を倒した。
一方、欧州やアジアなど各地では、イスラム聖戦主義者による無差別攻撃事件が相次ぐようになった。
アルカイダは今なお存在する。サハラ砂漠以南のアフリカが主な拠点だが、アフガニスタン国内にも構成員はいる。
米軍は今年8月31日を最後に、20年近いアフガニスタン駐留を終えた。アフガニスタンが今後再び、アルカイダの活動拠点になるのではないかと、懸念が高まっている。
ncG1vNJzZmivp6x7o67CZ5qopV%2BfrrGtzZ6qnmeWmq61wdGeqmaZnpl6orrApbCsoaNignmAlHJnb2w%3D